日本で初めてのオールスターゲームは昭和26年(1951年)7月4日甲子園球場だった。
試合前,十重二十重の行列になって押し合い圧し合いするファンの姿が弊社ライブラリーに残されている。
当時はセ・パ 7球団だった。
セリーグ巨人,名古屋,大阪,松竹,国鉄,大洋,広島。
パリーグ南海,西鉄ライオンズ(西鉄クリッパーズと西日本パイレーツが合併)毎日,大映,阪急,東急,近鉄。
セリーグは巨人の別所毅彦が先発。記念すべき第1戦は巨人川上哲治のヒットで決まった。MVPの川上に贈られたのは自転車だった。
第2戦は7月7日。セリーグ先発は,またもや別所毅彦。途中でノーアウト満塁のピンチとなる。ここでリリーフとして国鉄金田正一が登板。剛速球を武器に2者連続三振などで無失点、素晴らしい火消しを見せた。大舞台での快投,意気揚々とベンチに引き上げる若き日のカネやんの姿をカメラはしっかり捉えている。
そして試合を決めたのが名古屋の西沢道夫だった。代打で登場した西沢は身長182cmの大男。球史に残るオールスター初ホームランをレフトスタンドへと運んだ。
西沢道夫は
“戦争が生んだ二刀流”だった。
戦前に旧制小学校を卒業した西沢は昭和11年(1936年)12月,名古屋に投手として15歳でテスト入団。
昭和12年(1937年)9月に16歳4日で投手としてプロ初登板。
昭和17年(1942年)7月18日にはノーヒットノーランを達成、同年5月には世界最長の延長28回,311球を投じ完投したこともある。
しかし召集を受け出兵。
右肩を壊し、投手を断念する。
戦後はやむなく野手に転向。
打者として首位打者,打点王を獲得。昭和25年(1950年)には46本塁打を記録した。
今年も海の向こうで,一夜限りの夢の球宴が行われる。
そして世界は”二刀流・大谷翔平”を熱く見つめる。
果たして西沢道夫は・・・
戦争が無ければ投手として,どんな記録を作っていたのだろうか。
或いは打者としての才能は花開いたのだろうか。
叶うなら,戦争なき中で”二刀流”